大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所 昭和42年(う)225号 判決 1968年7月19日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

<前略>よつて接するに、自動車運転者が、先行自転車を追抜く場合には、該自転車の動静に注意し、これと適当な間隔を保持しつつ、安全を確認して進行すべき義務の存することは当然であるが、どの程度の間隔をもつて適当といえるか、又更に警音器を吹鳴して自転車搭乗者に警告を与え或いは減速して追抜きにでるべき義務が存するか否かは、両車の横の間隔その他その際の具体的状況に応じて定まるもので、一律には論じえないところ、本件についてこれをみるに、原判決挙示の各証拠によると、被告人は、自動車運転の業務に従事していたものであるが、原判示の日時ごろ、同判示のタンクローリーを運転して、時速約四〇キロメートルで、広島市東雲町一、〇六六番地附近道路上の舗装部分(有効幅員九メートル)左端より1.8ないし2メートル、中央線より四三センチメートルのところを東より西に向けて進行中、前方約三〇メートルの同道路舗装部分左端から五、六〇センチメートル内側の地点を、同方向に向け先行自転車と約三メートルの間隔をおいて自転車で進行する伊藤恒雄(当時二八年)の姿を認めたものであること、被告人はそのまゝ直進して右伊藤の搭乗する自転車を追抜こうとしたのであるが、その際自車の後輪フエンダーが同自転車のハンドル右端に追突し、これがため伊藤がその場に自転車もろとも転倒して、原判示の傷害を負つたものであること、同所附近の道路は、直線・平坦なアスフアルト舗装で、同舗装部分左側には幅約一六メートルの非舗装部分があり、見通し良好で、交通瀕繁な場所であること、被告人が伊藤の自転車を認めてから、これが追抜きを始めるまでの間、同自転車は先行自転車と前記の間隔をおいて、同道路上の舗装部分左端より約五、六〇センチメートル辺りを直進しており、被害者は熟練した自転車通勤者でその乗車態度にも不安定な様子は全く認められず、且つその進路上には何らの障碍もなく、分岐または交差する道路もなく進行中の自転車が急に停車または右折するようなことは通常は予想し難い場所であること、被告人は自車および伊藤搭乗の自転車がともにそのまゝ進行すれば、同車に約一メートルの間隔を保つて、これを安全に追抜きうるものと考え、右追抜きにかゝつたものであること、被告人が認識、予見したとおりに両車が進行しておれば、右自転車のハンドル右側部分と被告人の車との間には、少くとも九五センチメートル以上の間隔があつたと認められること、しかして原判示の追突は、右伊藤が、急ブレーキをかけた先行自転車との追突を避けようとして、とつさに自車のハンドルを右に切り、先行自転車の右側に出た直後に生じたもので、被告人は、右追突直後、自車の左バックミラーで路上に倒れている右伊藤の姿を認めたが、追抜開始前においては同人搭乗の自転車が先行自転車の右側に出るような気配も出かかつた状況も目撃していないこと、被告人運転のタンクローリー左側バックミラー辺より同車運転台横附近までの同車左側方の一部は、被告人の運転席からは視覚の達しない、いわゆる死角圏内にあり、その間を同車と約一メートルの間隔をおいて進行する自転車搭乗者の姿は容易に認めえないこと、その他記録上窺われる被害自転車の転倒位置・状態等からみて、同自転車に被告人運転のタンクローリー後輪フエンダー部分が追突したのは、同自転車が先行自転車えの追突を避けようとして、右にハンドルをきつて、急に被告人の車の進行路上に進出したためで、しかもそれは、被告人の運転席からは、容易に認識しえない死角圏内のことであつたと認められるうえ、右のような交通瀕繁な市街地を通行する被害者としては、自車に後続し或いは自車の右側方を通過する多数の車輛のあることは、当然予想警戒すべきであつたと認められるのである。

以上認定のような具体的状況のもとでは、被告人が被害自転車を安全に追抜きうるものと考えたことも首肯しうるところであり、且つ伊藤搭乗の右自転車追抜き中に、被害自転車の先行自転車が急停車し、ために被害自転車が突如として先行自転車の右側に出て被告人の車の進路上に進出接触する危険のあることまで予見すべきであつたとし、予見義務違反ありとするのは、酷に失するものというべく、かような状況のもとでは、被告人が警音器を吹鳴して右伊藤に警告を与えず、或いは減速して追抜きの挙に出なかつたとしてもそのことをもつて、直ちに被告人に自動車運転者として責むべき過失ありと断じ、本件事故の刑事責任を問うことは失当としなければならない。

以上要するに原判決は、刑法第二一一条の注意義務に関する解釈を誤つたもので、その誤は判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

よつて刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八〇条により原判決を破棄することとし、同法第四〇〇条但書により更に当裁判所において直ちに判決する。

本件公訴事実は「被告人は自動車運転の業務に従事している者であるが、昭和四〇年三月一五日午前七時四五分ごろ大型貨物自動車(タンクローリー)を運転し、時速約四〇キロメートルで広島市東雲町一、〇六六番地附近道路の舗装部分(有効幅員九メートル)を東から西へ向け進行中前方三〇メートルの同舗装部分左側を同方向に向け自転車に乗つて進行している伊藤恒雄(当二八年)外一名を認めてその右側を追抜きしようとしたが、自転車は一般に何時その方向を変えるかも図り難いから同車の動静を注視するは勿論予め警音器を吹鳴して警戒を与え適当な間隔を保持しつつ減速して追抜く等安全を確認したうえ進行し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務を怠り、警音器による警告をせず、同一速度で同車に接近して漫然進行した過失により、同車側方を追抜中自車左側後輪フエンダーを同車ハンドル右端に追突転倒させ、よつて同人に対して全治日数不明の右頸椎神経引抜症状等の傷害を負わせたものである」というのであるが、右のとおり被告人に対しては、かゝる業務上の注意義務違反は認められないので、結局被告人の所為は罪とならないものとして、同法第三三六条に則り、被告人に対し無罪の言渡をすることとする。(幸田輝治 浅野芳朗 畠山勝美)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例